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倶楽部報(2023年秋季リーグ戦優勝特別号)

堀井哲也監督インタビュー

野球部監督 堀井 哲也(昭和59年卒 韮山高)

2023年11月13日

野球部監督 堀井 哲也

勝ち点5の完全優勝と慶早戦200勝で通算40回目の優勝を達成した堀井哲也監督に、優勝の要因や戦いぶり、ふだんの練習の成果などについて語っていただきました。

−−−−完全優勝、慶早戦200勝で、通算40回目の優勝を成し遂げました。いまのお気持ちと、快挙達成の要因をお聞かせください
本当に嬉しいというか、ほっとしたというか、気持ちは半々ですね。40回目という優勝、早稲田に200勝というのは、諸先輩が築いていきた伝統をつなぐことができたということであり、本当に嬉しく思います。諸先輩に感謝しております。優勝の要因には、野球自体に関する、いろんなことはありますが、一番は、4年生がこの1年間、本当に頑張ってきたことにあると思います。春から夏の成長に、取り組みとかも含めて、4年生の頑張りがよかったのではないかと思います。

−−−−「死闘」の連続でしたが、それを乗り越えられたポイントを挙げるとすれば
夏合宿を終わって、チーム力は春季よりも整備された感じがしていました。ただ、最初から優勝とか見えていたわけではなく、まずは開幕戦の対立大戦をどう取るかということでした。本当に「一戦一戦」ということしか考えられなかったですね。開幕してからは、外丸が一番安定していたことが今季の大きな特徴で、一回戦と三回戦はある程度、外丸の先発でいけると思いました。二回戦の先発は途中から1年生の竹内が出てきたことで、それが今季の戦い方としては大きな転機となりましたね。

−−−−「投手を中心とした守り」は今季も随所で発揮されましたね
春季リーグ戦ではちょっとエラーが多かったので、この夏合宿では、内野守備の向上にも相当頑張って取り組みました。ピッチャーとキャッチャーのバッテリーも含めたディフェンスですね。そこはある程度、仕上げることはできましたが、これだけはいくら練習試合、練習の段階で仕上げても、神宮球場でのリーグ戦の場に来ると、全然違います。春季もそれなりに自信持ってリーグ戦に入ったら、やはりいろんな面で足りないところがあったので、今季も実際にやってみないと不安はありましたね。守備位置も最初はファースト吉川、セカンド廣瀬、ショートに斎藤快というところから入りましたが、やっていく中で、ファースト廣瀬、セカンド斎藤快、ショート水鳥の形がベストかなと、途中からのこの形になりました。

−−−−攻撃では、二死からでも果敢に得点を重ね、打線の粘りが目を引きました
廣瀬はバッティングリーダーというか、廣瀬が打線を引っ張っていくチームだと思います。そこにいろんな面で、練習量から、練習での姿勢、さらには、試合での考え方を含めて、廣瀬に引っ張られた打線だったということの表れではないでしょうか。

−−−−練習ではオープン戦を50試合もこなしてこられましたが、その成果をどう受け止めておられますか
試合が一番、体力を作れると思っています。春は体力的にまだまだで、レギュラーだった選手も少なく、三回戦になったときや、リーグ戦の後半になったときに、ちょっと、体力的にバテてきているなと感じました。精神的なプレッシャーや精神的な集中力も含めて、試合はものすごく疲れるので、試合を数多くこなすことで体力がすごく変わってきた。法政戦が終わったときに選手たちには「まだリーグ戦の半分も終わっていない。ここから戦う練習をしてきたんだぞ」と言いました。選手たちはリーグ戦後半もしっかりとし、コンディションを落とさなかったですね。今季は、体力を最後まできっちりとキープできたと思います。

−−−−選手以外にもアナリストらさまざまな部員が活躍しましたね
「部員全員の力」と、よく言いますが、本当にその通りで、みんなよく頑張ってくれました。車に例えて、よく言うのですが、選手はタイヤやボディーだとしたら、選手以外のスタッフというのはエンジンであり、電気系統であり、ナビなので、それら全部が機能して車というのは動くわけです。そういう意味で、みんなそれぞれの役割を果たしてくれたということですね。とくにソフトの部分というか、野球以外の部分での貢献は大きかったです。

−−−−次は、2年前に決勝で惜しくも敗れている明治神宮大会です。改めて抱負を聞かせてください
「一戦必勝」という戦い方はここでも大事に、その考え方を変えずに、目の前のプレーに集中するということですね。そういうメンタルというのは、今年のチームは強いと感じています。メンタルと団結力のチームだと思っていますので、「一戦必勝」に相応しい試合をしてくれると期待しています。

(聞き手:蔭山実 昭和61年卒 四條畷高)

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