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倶楽部報(2023年秋号)

三田倶楽部員奮闘記「マイナーリーグの経営」

小貫 公也(昭和55年卒 慶應高)

2023年09月08日

1994年3月の早春の日、米国アラバマ州バーミングハム市、開幕前のマイナーリーグの球場は閑散としていた。そこに一台の漆黒のポルシェが駐車場に入ってきた。車から降り立ったのは身長2メートルもある男で、全身に眩し過ぎるオーラをまとっていた。その長すぎる脚で、彼は球団事務所に向かって闊歩してきた。これがマイケル・ジョーダンとの最初の出会いであった。

私は1980年に慶応義塾大学を卒業後、サントリー株式会社に入社しました。営業の経験を4年間、飲食の子会社で6年間勤めた後、32歳の時に突然、「買収した米国の野球チーム、バーミングハム・バロンズに出向を命ずる」という内示を受けました。当時、サントリーはスポーツ事業への参入を模索しており、その候補の一つが野球事業でした。この内示は私にとっては青天の霹靂でした。当時の私は英会話能力が皆無で、海外赴任など想定外のことでした。私が選ばれたのは、会社の人事情報に「慶應義塾大学体育会野球部在籍」と書かれていたからという理由だけであったと聞きました。その時には慶大野球部に4年間在籍していて本当に良かったと思った次第です。

バーミングハム・バロンズ(以下バロンズ)は米国マイナーリーグの2Aに属し、シカゴ・ホワイトソックスの傘下の球団でした。マイナーながら野球のレベルは非常に高く、ピッチャーは初速150km/h以上の速球を投げ、打者は両翼100メートルのフェンスを軽々と越えるパワーを見せつけていました。当時、バロンズには4番打者にフランク・トーマスという選手が在籍していました。彼は後にホワイトソックスの主砲として20年以上活躍し、通算成績は本塁打521本、打率.301、安打2,468本を記録するスーパースターとなりました。間近で見た彼のスイングと打球の速さに驚愕したのを思い出します。

バロンズでは副社長として球団経営の責任を担いながら、もう一つのミッションとしてメジャーリーグビジネス成功の鍵をMLBの要人から学び、また将来に備えて人間関係を築くことが課されました。ホームゲームのない期間を利用して全米26球団を訪れ、GMや幹部と面談し、球団経営の成功の要諦は何かを聞きました。使命を果たすため、私は本場の野球を学ぶことに真剣に取り組みましたが、本当にやりがいに満ちた夢のような時間でした。

一方、バロンズの経営ですが、リーグ戦績は1991年にはサザンリーグで優勝するなど健闘はしていましたが、観客動員数は芳しくありませんでした。球団の収益も毎年赤字が続きました。そのような状況のなか、突如NBAのスーパースター、マイケル・ジョーダンの入団という大イベントが到来しました。

当時、マイケル・ジョーダン(31歳)はNBAのスーパースターとして絶頂期にありました。彼は1993年に父親が強盗に殺害されるという悲劇に遭い、敬愛する父の夢であったプロ野球選手になるためにNBA引退を決意しました。

ジョーダンが所属していたNBAシカゴ・ブルズのオーナーは同時にMBLシカゴ・ホワイトソックスのオーナーでもあり、ホワイトソックス傘下の2Aであるバロンズもジョーダンの所属先候補となりました。アメリカ南部の田舎町はその噂に大騒ぎとなりました。当然、ホワイトソックスの傘下には1Aから3Aまでの約10球団があり、各都市が熱い誘致合戦を繰り広げました。

バロンズの経営陣の見解は、マイケル・ジョーダンは自分が客寄せパンダとはならず、静かに真剣に野球に取り組める球団を希望していると考えました。その対応としてバロンズはあえて過激な誘致合戦には加わらず、球場の運営の堅実さと安全性を前面に打ち出しました。その企業姿勢がジョーダンの目に止まり、ジョーダン自らが決断してバロンズでプレーすることになりました。まさに私たちにとっては宝くじを引き当てたようなものでした。

1994年のシーズン開幕時には日本も含め世界中から300社以上のマスメディアが殺到し、普段は閑散としていたプレスルームは人で溢れかえり、立っていることもできないような状況でした。広報担当者は今まで経験したことのない数のマスメディア対応に追われました。また、近郊からはジョーダンを一目見ようというバスケットボールファンも殺到し、シーズン終了までチケットは即完売となり満員御礼の状態が続きました。

私も毎日フィールドに降りて、ジョーダンの一挙手一投足を見る機会を得たことは一生忘れることのできない思い出となっています。ジョーダンはバスケットボールではスーパースターであり、世界の憧れの的でしたが、野球は幼少期の経験しかなく、最初はバッティングピッチャーの投げるボールにさえ当てるのが精いっぱいでした。開幕戦では全打席一度もボールに掠ることもなく三振。2試合目も全打席三振であったと記憶しています。しかし彼がすごかったのは、どんなに惨めな三振を喫しても、下を向くことなく堂々とベンチに戻る姿でした。

ジョーダンは毎日朝、最初に球場に出て特打をし、試合後は誰よりも遅くまでバットを振り続けました。何試合目かで初ヒットを打った時は、チームメイト全員がベンチを飛び出して喝采を送りました。また出塁すれば天性の足の速さを活かし、一球目から全てスタートを切って盗塁を狙いました。お世辞にもスタートのタイミングは早くなかったのですが、それでもほとんどの試みでセーフになるカモシカのような走りでファンを魅了しました。打率2割前後なのにシーズンの盗塁数は30で盗塁王争いをするほどの素晴らしい記録でした。守備はライトですがボールを追うセンスは素晴らしく肩もめっぽう強く、その運動能力は眼をみはるものがありました。

ジョーダンのすばらしさはそれにとどまらず、野球に取り組む姿勢にありました。毎日の練習態度のみならず、マイナーリーグでは普通の40連戦休みなしなどという過酷なスケジュールでも休むことはなく、アウェイでの夜中10時間以上かかることもあるバス移動も自主的にチームメイトと一緒のおんぼろバスに乗って行きました。大成功者で大金持ちであるにもかかわらず、チームメイトとワンチームとなるために、足も伸ばせない狭いバスに乗り、場末のロッジに泊まるその真摯な姿勢はチームメイトや球団スタッフに心から愛されました。

シーズンも終盤の8月にはついに3本の本塁打も放ちました。一本目の本塁打を打った時は相手チームも全員ベンチから飛び出して、ホームベース近くで祝福の輪を作る異例の状況になりました。

ジョーダンの94年のシーズンは打率.202、本塁打3、打点51、盗塁30で幕を閉じました。1995年も引き続きプレーをするため、ウィンターリーグにも参加してメキメキと技術を上げていきました。しかしシーズンオフに起きたMLBの泥沼の労使交渉で開幕が遅れるという異例の事態に発展しました。ジョーダンは子供たちに夢を与える野球が大人の事情で汚されるになることを大変嫌い、残念ながら野球から去る決断をしました。その後33歳でバスケットボールに復帰したジョーダンは以前にも増して素晴らしいプレーを披露しファンを魅了し続けました。

最後にジョーダンの人となりを表す逸話をご紹介します。シーズン最終試合終了後に従業員とその家族との記念写真を撮ってほしいとジョーダンにお願いしていました。ジョーダンからは快諾を得て、当日は家族もきちんと着飾って、仮設の撮影ステージの前に待機していました。撮影はまずは球団社長家族からと順番を決めていましたが、ジョーダンからは最初の撮影は自分のために毎日一生懸命グラウンド整備をしてくれたグラウンドキーパーと撮りたいと言ってくれたのです。キーパーは自分の順番は最後と思い、その時はまだグラウンドを整備していました。スタッフが慌てて呼びに行き、走ってきた泥だらけの彼と着飾った家族とのワンショットはジョーダンの満面の笑顔とともに最高の一枚となりました。ジョーダンがキーパーに『私がシーズン中ケガもなく無事に終われたのは君のお陰だ』と言った言葉に場内感動に包まれました。ジョーダンの人となりを表す良い逸話だと思いましたので紹介させていただきました。

まだまだ書ききれないほどジョーダンにまつわる素晴らしい逸話はありますが、紙面の都合でここまでとさせていただきます。私の過ごしたアメリカでの4年間の球団経営、特にジョーダンの在籍していた1994年は一生忘れられない大切な思い出となりました。

今年1月にサントリーを定年退職しましたが、このような素晴らしい経験をさせていただいたサントリーに大いに感謝をしています。またこのような良い経験は慶大野球部に在籍していたことでもたらされたものと感謝しても足りないぐらいです。今は六大学野球を大いに楽しみ、甲子園に春夏の出場を果たした塾高の応援もしています。またWBCでの日本の活躍に感動し、大谷翔平をはじめMLBで活躍する日本人にも釘付けです。これからの残りの人生も野球との強い縁はずっと続きそうです。

バロンズ時代の筆者
バロンズ時代の筆者

走塁練習をするジョーダン
走塁練習をするジョーダン

打撃練習に向かうジョーダン
打撃練習に向かうジョーダン

ジョーダンと握手する筆者
ジョーダンと握手する筆者

視察で米国を訪れた王貞治氏と筆者
視察で米国を訪れた王貞治氏と筆者

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