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倶楽部報(2017年春号)

東京六大学野球の審判員としての9年間

木幡 龍太(平成19年卒 福岡大大濠高)

2017年04月13日

木幡 龍太

私は、大学を卒業直後の2007年4月より審判員を拝命いたしました。理由は、大学院への進学が決まっていたことと、上級生になっても、オープン戦の審判を買って出ていたことでした。私は野球への恩返しがしたいという思いで引き受けました。

当時、審判員がどういった仕事で、同僚がどういった境遇なのか全く知りませんでした。しかし、実際に始まると苦労の連続でした。まず、ルールやフォーメーションを完璧に覚えることが非常に大変でした。適切な位置に動き、正確なルールの適用が出来なければ、選手や観客を納得させるジャッジはできません。更に、18名の審判員で構成(2007年時点)されるため、審判員になると新人であっても即実戦に投入されます。さながら「丁稚奉公」で、実戦経験で審判員として成長するため、まさに職人なのです。それゆえ簡単に交代は利きません。

また、六大学の審判員ゆえのプレッシャーも大きいものでした。「六大学の審判員は日本一じゃないとだめだ」とよく言われていました。諸先輩方の努力と歴史により六大学はアマチュア審判員の中でもトップクラスの集団で、甲子園、社会人野球の審判員も六大学から派遣されています。

2年間の大学院生活を修了し、2009年4月日本郵船株式会社に入社しました。本配属で東京の関連会社に出向、営業を担当しました。出向先ということもあり、平日に休暇を取ることが難しく、審判の同僚には非常に迷惑をかけました。顧客回りと残業、会食の毎日で審判の練習に時間を割けませんでした。2015年に第一子が誕生、仕事、審判に子育てが加わりました。共働きでは子育てを優先せざるを得ず妻の復職を機に審判を引退致しました。

六大学の審判員は、日本一の技量が求められます。同時に仕事、家庭との両立が辛く、困難です。東京六大学野球をはじめとした日本の野球の将来を憂い、改革を先導する塾野球部の塾員の皆様におかれましては、引き続き審判員の改革も御一考いただけますと幸いです。

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